震災より3日目、改めて考えた大切なこと

エッセイ

2018年6月18日7時58分、大阪府北部を震源地とする大きな地震が発生しました。

私は、前日に消防設備士の試験があり、

「今日くらいはちょっとダラダラしてもいいかな…?」

とうっすら考えていたときのことでした。

たぶん、地震で揺れ始めるのと同じくらいのタイミングで携帯の地震速報が鳴っていたと思います。

幸い私は大阪市の中央区のほうで、物は乱雑ではありますがあまり家具など密集していない部屋で、なおかつマンションの2階だったということもあり、

「結構揺れたなぁ」

くらいのものに思っていました。

とりあえず地震速報でも調べようとして、とりあえずスマートフォンで”地震”と検索しました。

テレビがないから。

“震度6強”、”大阪北部で強い揺れ”

というようなニュースを目にして、事の深刻さを感じ始め、次はtwitterで調べてみようと思いました。

現地の状況がわからないから。

地震が発生して数分では、

“めっちゃ揺れた!” 、”怖かった!”、”電車が止まった”

というようなツイートばかりで、具体的にどこかで建物がひどく倒壊しているとか、沿岸部で津波がどうとか、そういった報告はまだ何もないようでした。

そうして安堵するとともに、自然とスマートフォン中心の生活になり、twitterなどのインターネットによる情報を取得しにいくことが当然のようになっている自分自身に気づきました。

うまく現代社会に溶け込めているもんだなぁ、と面白く感じたものです。

情報は、かんたんに手に入るようになった

私は、阪神淡路大震災のときは小学1年生で、和歌山県の北部に住んでいました。

確かによく揺れたことや、

建物の倒壊や火事を報道ヘリから伝える映像と、時間を追うごとに増え続ける死傷者の数を報告し続けるテレビのニュースを覚えています。

その時は携帯電話なんてそんなに普及してなくて、ポケベルだったかな?

自分の親がポケベルを持っていたかどうかも覚えていません。

ただとにかく、自分が小さい子供だったこともあり、神戸だとか火事だとか、身近で人々がたくさん亡くなっていくなんていう事態にリアリティなんて感じられるはずもなく。

なんとなく落ち着かない空気を、肌で感じることくらいで精いっぱいだったことは覚えています。

そうこうしてややこしい大人になり、大阪の大学に進学して数年、一人暮らしも慣れたころ、東日本大震災が起こりました。

正直、地震の揺れ自体は全然気づかなかったため、最初は地震の発生自体に気づいていませんでした。

地震の発生を知ったきっかけも覚えていません。

大学が春休みだったため、アルバイト以外は基本的に自宅待機。

地震の当日も夕方からアルバイトで、その夜か翌日に大阪から東京へ向けて発つ用事があったのですが、それも当然キャンセルとなり、自宅待機。

今のように資格を取得しようと考えているような人間であれば、ちょっとでも勉強してやろうと考えたのかもしれませんが、基本的に私は今も昔も勤勉なタイプではないため、これといって何をするでもなく数日を消化していたような気がします。

もうその頃は周りや自分もスマートフォンを持っていて、mixiやtwitterのようなSNSもよく利用していました。

テレビのニュースよりも、各地に住む個人個人からの声や報告をリアルタイムで手に入れることができるため、このような災害のときも重宝しました。

※ちなみに熊本の大地震については、数年後に熊本に出張で訪れたとき、その爪痕の大きさを思い知ったのですが、発生当時は特に私の生活圏に影響が現れていませんでした。

ただ、今回の大阪での地震でもすでに報道されていますが、真偽が定かでない地震予測ニュースなどがネット上にアップされていたり、twitterでいわゆるデマツイートが拡散されたり、一部どうしても

「どうでもいい」

と思える情報が飛び交っています。

これは地震や災害の時に限ったことではなく、いたずら目的か何かはわかりませんが、普段からこうしたどうでもいいことはいろいろなところに身を潜めています。
先日当ブログで取り上げた擬似科学なんかの一部もそうです)

しかし、普段はどうでもいいことだとわかっていても、地震や災害で不安な状態になっているとき、こうした情報に惑わされてしまうことは仕方のないことなのでしょう。

自分は安全でも、遠く離れた被災地に大切な人がいれば、現地が過剰に深刻な状態だと言われれば、心配で仕方なくなる。

明日や明後日にはもっと大きな地震がくる。〇〇のときはそうだった。だから絶対に注意!そう言われればそんな気もしてくる。

でももちろん、過去に大きな震災により、大変な経験をした方が善意でアドバイス的な情報を発信してくれていることもあります。

難しいのは、こうした情報の取捨選択をするのが自分自身にゆだねられてしまっていることなんだと思います。

たとえばyoutubeもtwitterも、誰でも発信することができます。

〇〇放送局だとか、◎◎出版社だとかの看板を背負わずとも、世界に向けて発言できます。

このブログをお読みいただいている間にも、誰かが無責任にどうでもいい情報を作り、発信しようとしています。

情報を取捨選択することの難しさ

この問題は、なかなか難しい問題だと思います。

というのも、個人個人がもつ

“世界の大きさ”

が大切なポイントになってくると思うからです。

そして、私が思うこの”世界の大きさ”とは、旅行に出る場所のような物理的な話ではありません。

小さいころは、両親や学校の友人、そしてテレビや新聞から知ることのできる世界が全てでした。
自分の足や自転車で普段からいくことができる範囲です。

成長するにつれて、交通手段が増え、アクセスできる場所やものが増えます。
いろいろなところから来た人と知り合うことが増え、それまではあいまいだった自分の生活の拠点、つまり世界が定まり始めます。

世界がどんどん広くなることもあれば、年を重ねるにつれて、狭く深くなることもあるでしょう。
勉強、仕事、人付き合いを通じて、その世界の大きさはどんどんと変わっていきます。

広くて浅くとも、深くて狭くとも、おそらくその大きさそのものが小さくなることはないと思います。

この、様々な経験や時間を通じて大きくしてきた世界によって、情報の取捨選択をするスキルはかなり左右されるのではないでしょうか。

「くだらない!」

と否定することは、人によっては簡単です。

「怖い!もっと広めないと!」

と思うことも、また別の人によっては簡単なのです。

適切な情報を蓄え、発信できるようになりたい

たとえば、私はたまたま宅建を受験してやろうと思ったことがきっかけで、今はマンション管理士となり、不動産業界の中のひとりとしてこのブログを書いています。

マンション管理士会の会員メールでは、

“こういう災害が実際に起こった時、管理会社がワンストップで管理していると、手が回らなくなっている”
“自分の住んでいるマンションは耐震診断結果が良くなかったけど、この地震に耐えられたことは今後ひとつの指標になる”

というような情報が、地震の発生当日から活発に共有されています。

実際に大きな被害が報道されているところからです。

このたくましさが誇らしく、うらやましく、そして自分がこの先輩方に完敗していることを思い知らされています。

しかも結局、このような気持ちにさせてくれるのも、やはりネットを介したメールなのです。

テレビや新聞では、こんなに迅速に、狭い世界のことを的確に知らせてもらうことは不可能でしょう。

直接深い交流はなくとも、信用に足る先輩から発信される大切な情報です。


テレビや新聞などのメディアが型遅れであるとか、これからはネットがすべてだとか、そういう話がしたいわけではありません。

私は、自分自身のもつまだまだ未熟な世界をもっと大きくしたい。

各メディアの良いところ・悪いところを踏まえて、正しく情報を扱えるようになりたい。

そうして、願わくば次の誰かのために、価値ある情報を発信できる存在でありたい。

常日頃から。

今回はそんなお話でした。

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